坂学会/坂歩き雑感・港区  

 坂歩き雑感           小谷 武彦

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2006年11月11日


東京の縮図・港区の坂歩き印象記


去る4月から毎月1回港区の坂を歩き、6ヶ月で全歩破しようと試みました。これは、東京の中心街である港区は江戸の歴史と文化の香、豊な緑、そしてハイファッションの街といわれておりますので、それらをエンジョイしたいと考えての坂歩きでした。我々「坂学会」の調査によれば名前のついている港区の坂は111ヶ所であります。本年4月の港区ポータルサイトによれば、86ヶ所と書かれていて、その差を調べるのも意義があることかも知れませんが、それに拘ると探索の意味が薄れると思い、「東京 山手・下町散歩」の書に基づいて約80数ヶ所の坂をアップダウンして港区のそれらを探り歩きました。

ご承知の通り、港区は西北一帯の高台地と東南の東京港に面した低地及び芝浦海岸埋め立て地からなっていますが、我々が興味を懐くのは西北一体の高台地であります。この台地は秩父山麓に端を発している武蔵野台地の末端で、これらの台地は小さな突起状の丘陵と谷の起伏に富んだ地形になっています。したがい、そこには数々の坂が存在するわけで、「赤坂」、「麻布台」、「白金台」という名前が今も残っており、特に「赤坂」は港区が昭和22年に出来るまでは北部の区名だったぐらいで、周囲を台地に囲まれた谷間に開けた街でした。そしてこの地形に繁華街、オフイス街、各国大使館、一流ホテル、お屋敷町、古い寺社、昔ながらの民家や商店街が渾然一体となって存在しています。

そこで、まず、歩いた港区の各地区の印象を記したいと思いますが、その名の通り坂が多い街の赤坂では坂下では一ツ木通り、みすじ通り、田町通りなどに飲食店が続きますが、一方高台は大使館や文化施設などが点在し、国際的な薫りがする地域でした。青山通りにあたる道はいわば尾根道だったのでしょうが、ここから分かれる道に坂が多くなり山の手特有の景観を作っています。

次に、麻布台ですが、ここは大使館と坂の街といえます。「うぐいすを訪ね訪ねて麻布まで」と芭蕉にも詠まれた麻布は江戸時代には台地上には大名と旗本の武家屋敷、台地下には町屋が軒を並べていたとの話ですが、この模様は今も変わらず、台地の上は外国大使館などがある閑静な住宅地、坂を下ると下町的な家並みの住宅や、商店街と続き下町的雰囲気を持つところです。

ちなみに何故この辺りに外交大使館が多いのかと聞きますと、それは幕末に鎖国を解いて外交を始めた時、この辺りに寺が多くそのために外国公館を港区に集めた事からだそうです。外国に建物を提供するのは武家屋敷は当時の攘夷感情からして問題があり、寺院なら聖域視されて攘夷派も切り込みにくいという考えからとの話でありますが、これは当然とうなずく話です。

余談はさておき、この麻布台に程近い旧飯倉町辺りも特に坂の多い町で、新旧渾然、表通りの厚化粧の裏は哀愁を秘めた町です。次代の移り変わりとともに高台にある麻布永坂住宅地は閑静な佇まいでありますが、昔の屋敷町は今も当時の屋敷町を偲ばせています。そして、瀟洒なマンションや広い邸宅が並び、緑多い環境良好な高級住宅地として品格を持ち続けています。一方、低地部は古い民家や商店、マンションやオフイスビルなどが入り混じる地区で、町の様子が時代と共に変貌を遂げているようです。

 この隣町が芸能人や外人モデル姿が数多く見られ、ファッションや遊びの最先端をいく東京でもっともおしゃれな街の六本木です。この界隈は高級マンションの立ち並ぶところとして知られていますが、江戸時代も武家屋敷が連なる高級住宅街だったらしく、木のつく名前の名家、上杉、朽木、青木、片桐、高木、一柳家の屋敷があったとの話であります。この周辺に芋坂、饂飩坂という庶民的な名の坂があるのも面白い事かと思います。

 この近くの最近トレンディな町として脚光を浴びている麻布十番の町には大正以前創業の老舗が40以上あると聞きます。戦前は浅草仲見世に負けないほど賑やかさを誇っていたと聞きます。外人がここに集まってくるのはこの町に残る伝統と日本情緒にその秘密があるのかも知れません。17世紀、幕府が古川の改修工事をした時の10番組の工区がここだったそうですが、その十番組が俗称になり、付近一帯を麻布十番と読んだそうです。それが現代も生き続けた以外に古い町のようです。

 さらに、麻布と地名を聞くと私には何か甘い憧れの情をいだかずにはいられないのですが、元麻布・南麻布あたりは洗練された家屋が立ち並ぶ住宅街です。特に有栖川宮公園、仙台坂周辺の大使館の静謐な雰囲気が気に入りました。有栖川宮公園辺りには江戸時代には奥州南部藩の下屋敷だったところですが、公園に沿う坂が南部坂と呼ばれるのもその名残と聞きました。

 そして、白金・高輪周辺ですが、白金は都内屈指の高級住宅街として、特に女性の憧れが強いようですが、確かに自然と歴史に恵まれています。特に外苑西通りは日常生活にあまり縁のないお店が大半でした。しかし、白金北里通りには庶民的昭和の面影が残る昔ながらの豆腐屋、電気屋が並ぶ商店街がありました。一方この辺りは教育環境の良さも特筆ものです。歴史的建造物でもある明治学院大学は有名ですが、特にお嬢さん学校の聖心女学校があります。この周辺の森はここが都心かと思えないよう風景でした。

  高輪は台地の上のまっすぐな道という意味の「高輪手道」が略されたものです。そして、高輪には多数の寺がありますが、それは寛永年間に幕府の命により八丁堀から移ってきたものと聞きました。又、高輪界隈には高層マンションが立ち並び現代的となりましたが、第一京浜から桂坂を登っていったところの高輪消防署日本榎出張所に代表されるような昭和初期の雰囲気を伝える近代建築物が残っている街でもあるようです。

 最後に芝、虎ノ門周辺ですが、この辺りのも歴史と文化を残す街です。増上寺、丸山古墳等町の中に史跡や芝公園のような大規模公園があり、趣と風格があります。そして、虎ノ門界隈は継承される歴史と格式があふれ、成熟したビジネス街として発展し続ける様子が窺えます。

さて、上記に記述しましたように港区の中で坂がどのように江戸の文化と風情を伝えながら今日の生活の中に溶け込んでいるかを探ってきました。その数多い坂の中で気に入った坂を5ヶ所紹介したいと思います。

<気に入った坂の紹介>

1.乃木坂: 青山霊園から 乃木坂トンネルを通って 赤坂に抜ける道。 乃木坂神社前からトンネルに向かう下り坂。
大正元年(1912年)までは幽霊坂と呼ばれていたが、日清、日露戦争で活躍した乃木将軍の死後、この坂をその名に因んで乃木坂と改称した坂です。この坂を上ったところが乃木公園で、ここでは和洋折衷の木造建築の乃木将軍の邸宅(1902年築)の室内を見ることが出来ます。ここは六本木の側とは思えない静かな、都会の喧騒がないところです。またここ神社参道で骨董市場が開催されると聞きました。

2.本氷川坂: 赤坂6丁目19番の氷川神社の西側の坂です。
かなり曲がりくねった少々登りがきつい坂ですが、とても静かで雰囲気があります。氷川神社を北東方面から抜ける氷川坂の辺りは今も木の茂りで薄暗く都会の喧騒を忘れます。昔はこの地に勝海舟や各地の大名屋敷があったようです。そして、この坂の上り口に勝海舟の居宅跡碑があります。

3.蜀江坂: 聖心女子学院の西裏を堀に沿って南に上がる坂で、カエデの紅葉の名所である中国の蜀江に因んで蜀江台と呼んだのがこの坂の由来です。屋敷林の緑と白壁の家並みは清潔感溢れる高台のお屋敷町です。それにしてもこの周辺一体の森林のような風景はここが東京の都心かと思わすほど美しく壮大であります。

4.江戸見坂: 虎ノ門2丁目−10番、4丁目の1番の間の坂道で、ホテルオークラ沿いの幅8mほどのかなり長い急坂であり、勾配20%で迫力があります。昔はここから江戸の中心部に市街が開けてからその大半を眺める事ができた為そう名付けられた。今は、ヒーヒーと言いながら歩いて上がっても前面にビルが林立して眺望は良くない。この坂で自転車での昇降はかなり難しい。

5.愛宕男坂: 愛宕2丁目の愛宕神社に登る石段。86段もあり俗に「出世の階段」といわれて、講談「寛永三馬術」の舞台として知られるところです。曲垣平九郎が将軍家光の増上寺参拝の帰途、将軍の命で彼の愛馬によりこの石段を登ったという話は有名です。


この石段を登ったところが愛宕神社の境内です。西郷隆盛と勝海舟がここから江戸を眺めながら会談した場所として以外もいろいろと歴史的な意味合いを持ったところです。

以上

(小谷 武彦記)
(写真 by M.Ogawa & N.Ide)


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