都電の走った坂道・今昔
都電の走った坂道・今昔(10)
乃木坂あたり
右の写真の電車が走る通りは乃木坂ではなく、外苑東通りである。乃木坂は左手の「旧乃木邸」の先でこの通りにぶつかり左折して合流する赤坂通りの坂道である。元は一気にこの高さに上る急坂で、東通りが今も残る右へ少し迂回している道があるが、そこが坂上になっていた。その後外苑東通りの整備に合わせて上のように変更された。そして現在の乃木坂の道は東通りの下をくぐって乃木坂トンネルとして青山墓地方面へと続いている。
右の写真に戻って、左端に「赤坂八丁目」の電停の表示があるが、この電停の名称は数奇な変更を経験した。この路線が開通した明治45年に「赤坂新坂町」電停として設置された。ところが明治天皇の大葬の日に殉死した乃木大将は神格化され、幽霊坂或はなだれ坂と言われた坂道は「乃木坂」と改称され、電車の停留所名も「乃木坂」となった。さらに戦争末期の昭和19年には「乃木神社前」とあらためられた。しかし、終戦後は再び開通時の「新坂町」に戻されたが、昭和42年の町名改正により「赤坂八丁目」となり、昭和44年10月に廃止された。この路線には、33系統の電車が、四谷三丁目から青山一丁目、ここ赤坂八丁目を経て六本木、飯倉片町、神谷町と通って浜松町一丁目まで走っていたが、都電の最短路線であった。担当は広尾車庫、写っている電車は1200形である。今もある旧乃木邸前の信号で人が横断している。
日露戦争の陸軍第三軍司令官であった大将・乃木希典は旅順攻防戦の英雄であると同時に二人の子息をその戦闘で喪ったという悲劇性で国民の同情を集め、写真左の邸宅で学習院長などを務め余生を過ごしていた。邸宅はフランス連隊本部を参考にしているが、旧式で簡素なものであり、それに反し通りに面してある馬小屋は立派な煉瓦造りの新式であり、これは乃木の人柄をあらわしている。しかし、明治天皇に殉死したことによって本人の意思とは別に上述の通り神格化され、邸宅の東側隣には乃木神社までつくられた(各地にもいくつか乃木神社が誕生した)。そんな乃木邸や神社は今もしっかり整備されていて上の写真と変わらぬ姿を残している。一方、驚くことは、この地域は上の写真の頃は落ち着いた静かな街並みと地域であったが、現代では旧防衛庁跡には「東京ミッドタウン」が誕生し、旧龍土町の東大生産技術研究所跡には「国立新美術館」が造られ、一躍屈指の人気スポットとして人が集まる街になったことである。それに合わせてバックにある建物もすっかり姿を変えている。
上の写真は「都電百景百話」(雪廼舎閑人、大正出版)からお借りした(昭和42年5月)。
下の写真は筆者(平成22年12月)。