神楽坂の坂 「神楽坂まちの手帖」編集長平松南 及び編集スタッフ (写真:井手のり子)
文豪が通った神楽坂(JR飯田橋駅1分)
神楽坂は坂下が海抜5メートル、赤城神社のあたりが24メートルである。
700mで海抜が19メートル高くなる。最初は一気にのぼり、やがて緩傾斜になり、
再びのぼる。変化に富んだ坂道である。 永井荷風はこの坂を何度も上がった。
坂上の矢来町三番地には、師と仰ぐ硯友社の同 人広津柳浪が住んでいた。
柳浪は、尾崎紅葉の硯友社の時代が過ぎると、次第に貧窮 し、一家を引き連れて
転居を繰返していったが、荷風があこがれたころは、矢来にいた。
荷風文学の出発点がこの神楽坂であることは、あまりり知られていない。
大正6年に荷風が発表した「書かでもの記」には「そもわが文士としての生涯は
明治 三十一年わが二十歳の秋、「簾(すだれ)の月」と題せし未完の草稿一篇を携え、
牛込矢来町なる広瀬柳浪先生の門を叩きし日より始まりしものというべし」と述べ
さらに「先生が寓居は矢来町何番地なりしや今記憶せざれど神楽坂を上がりて、
寺町通りをまっすぐにいく事数町にして、左へ曲がりたる細き横丁の右側、
格子戸造りの平屋 にしてたしか門構はなかりしと覚えたり」と書く。
荷風はこの直後の明治三十四年、九段の暁星にフランス語を学ぶために
入学している。アメリカ渡航の数年前の青春時代である。
とうぜん足繁く神楽坂をおとなったに違いない。
文学史上「硯友社時代」を画した尾崎紅葉は、広津の師であった。
明治二十二年東大 在学中に読売新聞社に入社、同紙につぎつぎと作品を発表して
一世を風靡していた。
明治二十四年、二十五歳で横寺町の朝日坂に新婚所帯をもった。
そこに泉鏡花、田 山花袋、小栗風葉らがつぎつぎに弟子入りを志願して殺到し、
坂を上ってくる。二十代前半にして著名な大作家の人気が垣間見られる。
夏目漱石も神楽坂を頻繁に利用した。大正4年になる「硝子戸の中」では
こんな回顧をしている。
「買物らしい買物は、大抵神楽坂まで出る例になっていたので、そうした必要に
馴らされていた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来の坂を上がって
酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、あの五、六町の一筋道などに
なると、昼でも森が陰森として、大空が曇ったように終始薄暗かった。」
「それから」 でも、漱石は主人公の代助を袋町に住ませ、神楽坂や地蔵坂を
行き来させている。このあたりの土地鑑も確かである。
「生まれ出る悩み」の有島武郎はその著「骨」で「神楽坂の往来は
びしょびしょにぬかるんで夜風が寒かった。而して人通りが杜絶えてゐた。
私達は下駄の上に泥の乗るのも忘れて、冗談口をたたきながら、
毘紗門の裏通りへと折れ曲がった。」と描写した。
荷風、鏡花、花袋、そして漱石や武郎などの文豪たちが若き日に、
知らぬ間に神楽坂ですれ違っていたことを想像するのは、なかなか悪くない。
ここに一葉がいれば申し分ないのだが、そうは問屋が卸すまい。
ところで、江戸切り絵図には必ず神楽坂下の入り口西よりの角に、
牡丹屋敷なる典雅な名前の武家屋敷が記されている。
牡丹屋敷の謎に迫ると、こんな事実が分かってきた。
八代将軍吉宗の世に、紀州から岡本彦右衛門という家臣がお供してきた。
彼は武家に お取りたてのところを、町屋を望んで当地を拝領した。
「熱湯散」という薬を広めたりしていたらしいが、
この屋敷内に牡丹を栽培して献上していたことから、牡丹屋敷 の名前が流布し、
牡丹屋敷彦右衛門と称した。しかし不幸が牡丹屋敷を襲った。当主はお咎めをうけ、
家財を召し上げられて、三つ割長屋に変わってしまたという。
美しい屋敷名に隠された悲劇である。
軽子坂
まだ郷土についてなにもしらなかったころ、「神楽坂に河岸がありました」と 郷土史家に説明されたときは、ほんとうにおどろいたものだった。 たしかに私が少年のころは、飯田橋の駅ビル(ラムラ)建設のため消滅してしまった 飯田掘に舟がもやっていた。船上には洗濯ものがひるがえり、こどもの姿も垣間見られた。
郷土史家がのべたように、江戸時代には神楽坂に平行する軽子坂に、 舟でつく荷物を坂上にかつぎ上げる人足がいた。それを軽子といった。 江戸は舟運にめぐまれていて、遠く千葉方面からの穀類、酒、魚介、米、 野菜がこの神楽河岸についた。
江戸時代の地図でみるとこのあたりの様子は、岸も入りくんで複雑だったが、
ひとびとはここに階段をつくって河岸を築き、蔵も建設し物資を集積した。
そのころ神楽坂は、いまよりもずっと急坂で、坂の途中には、
九段坂同様に階段がしつらえられていたから、軽籠(かるこ)にかついで荷を運ぶには、
この坂が多いに利用された。
当時の風景は、軽子坂にある「あずさ監査法人(旧朝日監査法人)の一階に
巨大な陶器製の壁画として描写されている。蔵も階段河岸も描かれている
(ただし、会社の施設内なので見学は出来ない)。
神楽河岸は江戸切り絵図にも登場する。
余談だが、江戸の切り絵図は、いまは複製ものが簡単に手に入るが、おすすめは、
江戸東京博物館のホール前の床に作られた安政3年のそれである。
何畳敷かの大きなもので、神楽坂界わいもよく分かるし、大江戸全体が手に取るように
理解できて大変おもしろい。
それをみると、神楽河岸のある川は、となりの牛込堀よりもずっと幅がせまい。
幕末ころの川の形状がこうだったのかとはっきりする。
軽子坂の入口は土岐藤兵ヱと平岩七之助の大きな屋敷である。また両側も武家屋敷である。
明治のころ、この辺は柿の老木が目印になっていたので「柿の木横町」とよばれていた。
漱石の一族は浅草猿楽町に芝居を見物にいくのに、神楽河岸から屋根つきの船にのり、
神田川(当時は江戸川)を柳橋に出て隅田川(大川)をさかのぼっている
(夏目漱石「硝子戸の中」大正4年)。
荷風も、舟からの光景をこんな風に表現している。
「市中の生活に興味を持つものには物揚場の光景も亦しばし杖を留めるに足りる。
夏の炎天神田の鎌倉河岸、牛込揚場の河岸などを通れば、荷車の馬は馬方と共につかれて、
河添の大きな柳の木の下に居眠りをしている(永井荷風「日和下駄」6 大正3年)。
荷風がみた光景は、私に、神楽坂を版画で描いた吉田博の作品を連想させた。 日露戦争がおわり、日中事変が始まる前の、大正という時代のおおらかな時代風景である。
さて歴史は下って戦後に入る。戦争で、神楽坂は丸焼けになる。そのころ、 このあたりは、野っ原であった。ギンレイホールのビルもその先のビル群も当然になく、 代りに池があったのである。それは、こどもらのかっこうの遊び場だった。 私はこの池でカエルをとり、やごをつかまえ、みずかまきり、げんごろう、 たいこうちなどの水生昆虫に夢中になった。ぎんやんまもおにやんまも、 この池をかすめとんでいた。神楽小路だけは、はやくから飲食街になってきていた。 大人のけんかが絶えない場末であった。いまもそのあたりは、戦後の面影を 色濃くのこしている。とくに路地内路地の「みちくさ横丁」は、新宿ゴールデン街の ミニュチュアのようで、いまでは大変貴重である。
軽子坂は、中村雅夫氏の調査によると、傾斜角度は5度、幅8,5メートルだが、
私が悪童連中と遊んでいたころは、もっと道幅がせまかったようにおもえる。
坂をあがって仲通をわたった東角は、大久保彦左衛門の屋敷あと。
左側は、北は三年坂の本多横丁まで、西は神楽坂通りまで、本多家の屋敷であった、
その一角、軽子坂に面しては、「うを徳」という料亭がいまものこる。
それこそ明治文学の名作「金色夜叉」を書いた文豪尾崎紅葉先生がその最盛期、
この料亭に泉鏡花をひきつれて遊んだのだが、鏡花は、紅葉の反対をおしきって、
うを徳の芸者桃太郎と所帯をもつという恋愛もあったのである。
大久保彦左衛門から芸者桃太郎まで、多彩な坂はいまもひとびとの恋を運んでいる
のではないだろうか。
「わらだな」といわれて地蔵坂を想起したら神楽坂通の有段者といえる。
坂は、神楽坂5丁目を6丁目に向かって左折する。S字の坂である。
私も5年前まで講談社という出版社で編集の仕事をしていたが、
ここは出版人にはなじみの坂なのだ。
坂を右にカーブしていった丘の上に「日本出版クラブ会館」があるからで、 出版祝の会場によく使われる。そのくせみな地蔵坂の名前を知らない。 むしろ「わらだな」といった方がぴんとくるひとがいそうである。 出版人には夏目漱石ファンや歴史愛好者が多いからだ。
「落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店(わらだな)へ聞きにでかけたもんだ。 僕はどちらかといへば小供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席は 大抵聞きに廻った」(夏目漱石「僕の昔」明治40年)。
地蔵坂は袋町にある。そこは豊嶋郡野方領牛込村だったが、のちに町屋となり、
肴町の横丁でなおかつ坂上は御徒組の門で袋小路だったため、袋町となった。
旧牛込区は、このあたりが武蔵野の牧だったのでこの名を冠した。
つまり牛がたくさんいたの である。駒込、馬込もこのたぐい。
わらだなとは藁店である。「改撰江戸誌」には「子安地蔵堂あり。
藁を商うもの古くよりおれば藁店ともよへりて藁坂という」ということである。
漱石が遊んだ席亭は、 本誌「家族の肖像」の永楽家さんの祖先が経営した
ようにもきくが、のちに洋画劇場に変身していった。それは「牛込館」という。
東京中にある席亭よりも最先端の洋画を選んで商売変えしたところは、
進取の気性を感じる。江戸っ子気質に流行への敏感 さがあるが、
神楽坂人にはそうした気風があったのだろうか。
漱石の落語好きに触れたが、 朝日新聞夕刊社会面が6日間特集を組んだ「神楽坂」の2004年2月5日のコラム 「東京」は、「文化を発信」というタイトルで、神楽坂と落語 をとりあげた。 私は神楽坂が落語のにあうまちだとT記者に提案したが、 その根拠はこうしたことだった。
そのころ神楽坂には演芸場が5つもあり、6丁目の安養寺うら の「牛込亭」もまた 落語と講談の専門館であった。いまの神楽坂組合(料亭組合)のある検番には 神楽坂演舞場もあり、柳家金語楼が出演していた。
ところで現在坂の途中には、居酒屋のもんとまぁるがある。
昭和30年代の古家をそのまま使っている。住居を店に改築したので、
通し柱が店内いたるところにある。もんの2階のまぁるは、
天井をとり外しているので、黒く塗装した屋根の内側がむき出しになり、
変化があって、空間の広がりを感じて気持ちがよいのだが、
空が高いうちに来てみると(ふだんは17:30開店)、
屋根のあちこちがほころび、空の光が極細 状に店内にさし込み、
まことに愉快である。
何でそんなことにくわしいかというと、両店とも私が経営しているからだ。
昨今デザイナーっぽいこじゃれた店が多くてつまらない。 私はこうしたなにげない古家に愛着があるのである。 もし寄られることがあれば、 神楽坂まちの手帖編集部まで連絡してくれたら、藁店時代のまちの写真でももって 参上しよう。
さて地蔵坂におとしてはならないもの。坂上の光照寺。 浄土宗で芝増上寺の末寺である。 見ものは、なんといっても林立する 出羽国(山形)松山藩酒井家の巨大な墓石群だ。 奇妙なしかも圧倒的な存在感を示している。 いまの酒井家はキリスト教に改宗していて、 墓守問題では大変興味のある、奇想天外な話もあるが、ここではふれない。
光照寺は牛込城跡であり、第70回芥川賞作家森敦、便便館湖鯉鮒(狂歌師)の墓、
海ほうずきの供養塔、キリシタン遺物碑など独特のものがある。
観光下手な寺なので、ひっそりとしてかえってよい。
ここを観光したら、まっすぐあるいて牛込中央通りの商店街にでてみよう。
地下鉄大江戸線開通を機に、いろいろ新しい店が進出しておもしろくなった。
最後に、江戸写し絵というのをご存知だろうか。そのはじめての公演が、
江戸時代この藁店で行われたときいた。ご存知のかたはお教え願いたい。
弁天坂(地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅歩1分) .
神楽坂上を左に折れて大久保通りを牛込中央通りの方に向うと、左手に寺がある。 「御府内八十八箇所之内・阿波国・平等寺模・第弐二番・弘法大師・天谷山・南蔵院」と
石に刻んだ朱の文字が見える。
第二次大戦で焼ける前の南蔵院には、弁天堂、聖天堂、阿弥陀堂、稲荷社、寺薬王院、
書院と本堂と庫裏、絵馬堂、門番所などの建物があったという。残念なことに、
坂名の由来となった、弁天堂は再建されていない。
明治の初期に神仏を分けた際、稲荷は赤城神社に移され、弁天堂や聖天堂の前に あった鳥居も取り払われた。
弁天堂にはご存知、あの天女の姿をした音楽、弁舌あるいは現世利益をつかさどる
弁天様がおいでになるから、多くの人の信仰をあつめたであろう。
明治のころの南蔵院前の弁天坂を描いたモノをみると、門の入り口には「あずきや」や
「おでんや」の ような店も描いてあって、女子供の行交う姿も多く、
さんざめく物音が聞こえてきそうである。
わたしは終戦の頃には埋められていたらしい、現在は境内の駐車場のあたりにあった
という「弁天池」が気にかかった。 御住職に捜していただいたモノに、
埋めたてる前の弁天池の形が判明した。男性が二の腕の力拳自慢しているような輪郭が、
読めた。腕の一番太いところに橋らしきも のもかかっている。御住職の記憶も、
鯉などの跳ねる小ぶりの美しい池であったようだ。
「ひょっとしたら、小堀遠州の作かもしれないという人もいるのですよ」と
御住職は付け加えた。なるほど、調べて見ると、正保四年(一六四七)に六九歳で
没した小堀遠州の墓は、南蔵院の西方、新宿区原町の法身寺にあるという。
地理的な条件は合い そうだが、時間的な条件は検証の必要がある。
でも、誰の作だって、庶民の目を癒したにちがいないだろうかまわない。
総じて弁天坂は、ゆったりとそして許容力のある、まるで弁天様の腕のような坂で ある。
ついでに、南蔵院の左横、大江戸線牛込神楽坂の駅の脇からS字にクネって上がる
元気の良い坂がある。何枚かの絵図を見ると大正十一年のモノには、細い道筋ができているし
大久保通りには線路の印もあるから、その頃から、東京の一大改造がはじ まったのだろうか。
それにしても、名の無いこの坂は、まだ人格を与えられていないようでもったいない。
名付け親は、やっぱりご町内がいい。
「美男坂」の別名を持つこの坂は、名前の面白さから坂に親しみはじめた私にとっては ことのほか興味をそそる坂であった。「美男に逢える」のではないかという 期待ももちろんだが、実際に行って坂下に佇むと誰しもが古代のロマンに夢をはせる。
この坂には悲話がある。昔武蔵守として都より赴任した小野美佐吉が
「さねかずら」という美女とここで出逢い恋に落ちた。
が、やがて帰還の命令を受けて別れ別れになってしまった。
募る想いに病となり亡くなってしまったのだが、ある夜彼女の夢枕に立ち、
この坂で再会を果たしたというものである。
「さねかずら」が別名美男かずらとも呼ばれることから
美男坂の名が生まれたということらしい。
坂の裾にはまるで置き忘れられたように小さな祠があり、
大きな柳がかぶさるように枝を垂れている。
そのむこうに緩く弧を描きながら坂が上っていく様はなかなか日本的風情がある。
が、しばらく上り日仏学院が視界に入ると、広い中庭の空間が開け一瞬別世界に
入り込んだような気分になる。
「坂の下からだと、どこに建物があるのか分からないらしく、
ゲストでやってくるフランス人や、学校に初めてやってくる日本人は、
坂をちょっと上ってぱっと現れる学校をみて驚くそうです。」
と日仏学院のシリルさんがお話してくださった。
坂はかなり急で、上から見ていると、ゆらゆら、ひょこひょことひとの頭が見えてきて、 全体の姿が現れる。先日訪れた時は上ってくる人の頭が左右に大きく動いて 不思議に思っていたら、フランス人の青年と父親らしき二人が自転車で現れた。 青年の方は坂の最後を踏ん張って上り切ったが、父親の方はあとちょっとという所で 自転車を降りて、照れくさそうに私の前を通り過ぎて行った。 無言ながら目を交わし、ふと心が温まった。
坂下の古川自転車のご主人のお話によると、小学校の頃は仲間と この坂を自転車で上る競争をしたとか。歳を重ねて上りきった時には 晴れがましく思えたとのことだ。
坂上には最高裁判所長官公邸があり、重厚な石垣塀が続いて、
ここが閑静な武家屋敷地跡であったことを忍ばせている。
このあたりの瀟洒なマンションにはフランスの方達が多く住んでいるようだ。
古のたたずまいを残しながらも現代ではすてきなフランス人と出逢える「逢坂」である。
毘沙門様の前から本多横丁を抜け軽子坂も突っ切って、築土八幡神社の石段の始まる 大久保通りまでの百メートル強の緩やかな坂である。 古いモノに「巾一間四尺より二間二尺」とあるが、車のすれ違いは難しそうな ところをみると、現在の道幅とおよその変化はないようだ。
坂上の半分を占める本多横丁は、両側に寿司屋、鰻や、居酒屋等が並び、 脇に「芸者新道」「かくれんぼ横丁」の路地を抱えて、 なにやら賑やかな物音が聞こえてきそうな商店の坂なのである。 以前は「ロクハチ」ともなると、御座敷に出る姐さんの艶姿が多かったと、 斎藤商店街会長はおっしゃる。ロクハチって?「六時から八時」のことですワ・・。 その姐さん達が一刻をあらそってショウトカットしたのが「芸者新道」だ。 そういえば敷き石もまろやかで吸殻の一つもない清潔さは、艶っぽい。
ところで、その名の由来、横丁の東側はかつての「本多対馬守」様のお屋敷である。
それなのにあろうことか、一時、「すずらん通り」と改名した。
斎藤会長は寿司屋を営んでいて、馴染みの客に再三、何故通りの名前を変えたのかと
責められた。それで「本多」を復活させたのが昭和五十年ごろだという。
「昔の名前で出ています」ほうがすてきだと、わたしも思う。
なんたって、本多様の目の前にはあの天下のご意見番の「大久保彦左衛門」も
住んでいた頃からのもだから。
斎藤会長の想像は、あだ討ちで有名な堀部安兵衛が決闘の助っ人に走った コースにおよぶ。叔母の知らせを受けた安兵衛が、八丁堀から鍛冶橋、竹橋、飯田橋、 改代町(新宿区)、馬場下、高田馬場を走る。飯田橋通過の際に、この三年坂、 つまり本多横丁を走ったかもしれないでしょう・・と目を輝かす。ないとは言えぬ、 とわたしも思う。
そもそも各地にある三年坂の名の由来は、必ず寺や墓地にとりかこまれた静寂な場所で、 ソコで躓くと三年の内に死ぬ。死なないためには三度土を舐めよという俗信による。 不吉な俗信のせいで、地蔵坂、三念坂の別名も多い。とにかく、これは危険な俗信である。 鳥の糞も含んだ破傷風菌にまみれた土を、三度もなめたらどうなることか。
堀部安兵衛も先を急ぐあまり、転んだかもしれない。しかし土は舐めなかっただろう。
ソレでも村上三兄弟をバッタバッタとやっつけるほど元気だったのである。
そのことを尋ね様にも坂名に起因した、当時はあった西照院も成願院も今は無い。
神楽坂通りを西へ歩き、東西線神楽坂駅手前の道を右にそれると、
赤城神社がある。そう広くない境内へ分け入れば、左手西わきに急な階段がある。
それを下ると四叉路、うち北へと下る坂が赤城坂だ。道幅四.二メートル、傾斜角
九.五度の坂上に立つ標柱に、「赤城神社のそばにあるのでこの名がある。
『東京名所圖絵』によれば、「……峻悪にして車通ずべからず……」とあり、
かなりきつい坂だった当時の様子がしのばれる。」とある。
赤城神社宮司夫人であり、境内にある赤城幼稚園の園長先生でもある人にお話を伺った。
「もとは群馬県の赤城にあった社殿がまず早稲田に、それからここへ移されました。
戦災でこのあたりも焼け野原、今の社殿は戦後再建されたものですし、
落雷で大きな穴のあいた大銀杏があったんですが、やはり戦火にやられました。
巨大なやけぼっくいになった大銀杏のずっとむこうに富士山が見えて、
それはきれいでした。戦前のことはよく知りませんが、今幼稚園があるあのあたりに
清風亭という料亭があって、坪内逍遥が新劇運動の場に利用したとか。
のち下宿屋になって、近松秋江や片上昇が寄宿したそうです」
さぞかし幽趣があったであろうもはや幻の大銀杏わきの急な階段を下って 赤城坂上に立てば、不足のないほど急坂だ。右へ左へ小さくカーブし、 低きへと一心に流れ落ちる。南へ行く小径の両角に居酒屋と食べ物屋。 西へ行く小径は民家が建てこむ。「戦前は風呂屋や商店がたくさんあったそうです」。 これも赤城神社宮司夫人から伺っているが、文献によれば、江戸時代この坂上辺には 岡場所があったらしい。牛に引かれて……、というあの善光寺の裏手にも岡場所があり、 殿方はお参りのおりに遊んで帰ったとか聞いたことがあるけれど、いったいどの あたりだったろう。その場に佇んでいると、南側の小径から高齢のご夫婦が現われ、 やおらゆるりと赤城坂を下りはじめた。滑り止めのためのぼこぼこにかえって 足を取られやしないだろうかと心配しながら見守っていると、こんどは補助つき 自転車に乗った幼い男の子とまだ若い母親がやってきた。 男の子はきゃっきゃとはしゃぎ、母親はサドルのあたりをギュッと握って スピードを制御しつつ、あっというまに老夫婦を追い抜き、 こつ然と右へ吸われていった。まもなく老夫婦が左へ消えた。
赤城神社の裏手は崖だ。切り通しのような崖下を縫い、
赤城坂は神田川南岸の水道町で流れ止まる。
神楽坂通りを東西線神楽坂駅に向かって上り、六丁目スーパーキムラヤの角を左に入ると そこが「朝日坂」。緩やかに上る坂の両側を埋める家々の間に龍門寺、円福寺、宝国寺、 長源寺…と寺院が点在し、表通りの賑わいが嘘のような静けさにほっと息をつく。
このあたりの町名は横寺町、その名の通りお寺の横町である。朝日坂という名は
坂の入り口近くにあった里俗朝日天神(北野神社)の名をとったもので、
明治二年までは町名も牛込朝日町と呼ばれていた。
寺の横町・朝日坂は、かつて尾崎紅葉、泉鏡花、正宗白鳥らの近代作家が通った
歴史をいまにとどめる坂でもある。
尾崎紅葉は明治24年から36歳で死去するまでの12年間を、坂上の左側、 大信寺に隣接する鳥居家の母屋を借りて住んだ。紅葉はここを 「十千万堂(とちまんどう)」と称して、2階の書斎で代表作「金色夜叉」をはじめ 多くの作品を執筆したが、多士済々な文士がここに出入りしていたという。 1階には玄関番として泉鏡花が19歳から3年間ほど寄宿している。
学生時代の正宗白鳥もこの横寺町に下宿し、朝日坂を通って早稲田に通学していた。
当時はまだ文学者を目指していなかった白鳥だが、『尾崎紅葉』
(筑摩版・現代日本文学全集)の解説の中で当時を想起して、散歩の途中、
銭湯通いの途中に町内の古ぼけた共同門に「尾崎徳太郎」という表札を
見つけたことを記している。尾崎紅葉が暮らしたこの家は戦災で消失したが、
鳥居家はいまも当時の場所にある。
「尾崎紅葉旧居跡」の看板が立つ路地を一歩入った板塀越しの庭は
紅葉が書斎から眺めたのと同じ庭である。
もうひとり、朝日坂を終焉の地とした文学者に島村抱月がいる。 坪内逍遙と共に文芸協会を起こした抱月創立の芸術倶楽部が、 坂の中ほど横寺町十番地にあり、その木造二階の建物は日本の演劇近代化の 母体となった。大正7年、この建物の一室で48歳の抱月は病死したが、 それを悲しんだ松井須磨子は翌年同じ場所で後追い自殺している。
近代文学・演劇を育んだ朝日坂はいま、「劇団ふきだまり」の拠点として 伝統を残す一方、ここを往き来し暮らす人々の「誕生から死まで」をそっと 包み込む坂でもある。坂道の家々の間に点在するのは、ママチャリが並ぶ小児科、 小さな子供服の店に小中学生の学習塾、ひとり暮らしの若者が仕上がりを待つ コインランドリー。中高年に人気の健康風呂に、介護サービス事務所もある。 そして、きょうも「墓所販売」の幟が風にはためくお寺さん。この坂はたった 2,3百メートルの間で「ゆりかごから墓場まで」ちゃんと面倒見てくれる。
坂を入ってすぐ右、打ち水が清々しい「割烹 とよ田」の店先の小さな飾り窓は、
お正月の飾りからいつの間にか節分の鬼の置物に変わっていた。
この季節の小窓に迎えられて始まる坂は、緩やかに蛇行しながら
牛込中央通りに抜ける。
東京理科大と英国文化発信地ブリティッシュカウンシルの間の坂道に入ると、 明治風の洋風建築が現れる。大学の前身、漱石の「坊ちゃん」が通った 東京物理学校の木造校舎を復元した近代科学資料館である。 和算の素晴らしい資料も多く、博物館のなかでは独特の地位を獲得している。 地味だが一見の価値があるから、坂散歩のついでに覗いてみたい。
館長は数学者の山田俊彦教授である。教授によると「フランス人の方が 小さいお子さん連れで随分通りますよ。」とおっしゃる。神楽坂は、 日本でフランス人の人口密度が一番多いのではないだろうか。 坂上で暮らすフランス人にとっては、乳母車や自転車で行き来するのに、 この辺では一番緩やかな坂に違いない。フランス人に限らない。若宮町から 下ってくる住人にとって、大切な坂道である。
坂の左側の若宮公園は、武家屋敷風の低い塀を巡らせている。 むかし武家地だった記念だろう。地下は、新宿区の防災緊急品のストックヤードと なっている。この坂は、幅がゆったりしていて車はあまり通らないので、 一見広場のように思える。理科大の学生も憩う坂道で、 近所の人には「理科大の坂」で通っている。
坂上には上ってくる人を迎えるようにパルスギャラリーがある。 こじんまりした清潔なギャラリーである。オーナーの話では、 父君がいろいろ探し回って、この高台に景色の良い場所を見つけ家を建てたそうだ。 当時は、きっと坂上のこの家から、外堀やおとなり千代田区の土手の樹木が よく見えたに違いない。 いまは高い建物で遮られて景色を楽しむことも出来なくなってしまった。 風景は財産なのにと残念がる。
坂上を左に折れると、都会の隠れ家的ホテルとして知る人ぞ知るアグネスホテルがある。
さらに進むと、鎌倉時代に源頼朝が奥州征伐の途上に寄ったという歴史の長い若宮神社が
現われる。長い間仮神殿だった社も新しくなった。コンクリートの社殿に、
黄色い帽子の学校帰りの女の子が立ち止まった。ピョコンとお辞儀をして拍手を叩き、
またくるっと踵を返して走って行った。手袋のままのポンポンという温もりのある響きが
優しかった。気持ちが和む名前が欲しい無名坂である。