先年亡くなられた中村雅夫さんの写真集『東京の坂』の一葉に、自転車に跨る異国の若い女性が、傍らに立つポストに投函するショットがある。側面に写る建物はなんとなく、ちゃちだが、窓上の「南麻布五郵便局」の表示は莫迦でかい。ここは北条坂上、各国の大使館が集中する町の一隅に置かれて、長らく三軒家郵便局と旧名で呼ばれ親しまれたが、坂が界する南麻布側の再開発が始まる平成14年、惜しまれつつこの地を離れた。今この場所に「オパス有栖川テラス」が建つ。
(写真 「東京の坂」 中村雅夫)
この郵便局の裏手、阿弥陀寺境内の片隅に昭和15年ごろ、母が家政婦として務めたお宅があった。ご主人は目と鼻の先の盛岡町交番うら隣の麻布消防署に務め、奥さんは自宅で病の床に伏し、家に2人の幼い兄弟がいた。いつか母と一緒にこの家に寄り、上の子が私と同い年と知り、この兄弟と仲よしになる。通りを渡れば有栖川記念公園。少し先にはガマ池もあり、遊び場所には事欠かない。
笄町から元広尾(渋谷区)へ引っ越し早1年。幼い頃から通い慣れ、誰もが共用できる公園の遊具も、地域の異なる子らにはテリトリーが存在して、知らない子と遊ぶ私を見た引っ越し先の仲間から、訝(いぶか)しそうな眼で見られた。
私と兄弟は時たま、母に伴われて木下坂を下り、中島理容店で散髪し、広尾橋(橋はない)を渡って商店街の銭湯に行き、3人仲良く湯に浸った。
先述の写真集の末尾に、「坂の暮らし、町の歴史」と題して、著者と川本三郎氏の対談が載る。その冒頭で川本氏は北条坂の思い出を語り、私の興味を惹いた。それに依れば同氏は、昭和32年から6年間、この坂を上り麻布学園に通学した。その文言の要旨は「品川駅行の都電を日赤産院下で降り、一つ目の凄い坂を登る。登り終えるとちょっと平坦になり、直ぐ次の急登にかかる。日々谷高校前に上る坂を遅刻坂というそうだが、この坂も全く同じ。運動部の連中はこの坂を利用し、トレーニングに励んだ。」
北条坂に関する川本氏の記述は、先の郵便局で切手を買った以外は、坂の経緯に触れていない。北条坂下で生まれ、5人兄弟の末っ子として6歳までこの地で育った私は、姉兄たちほどの郷愁も感慨もない。だが近い将来、この坂と堀田坂が行政拡幅されると聞き幼い頃の切れぎれの記憶を呼び覚まし、二つの坂の今昔を辿った。
テレ朝通り(旧桜田通り)を背に、広く明るくなったオパスのレンガ舗道を踏みながら短い急坂を下ると、舗道が切れ、緩くなった坂の左手に豪壮なマンション「ザ・ハウス南麻布」が現れる。竣工から3年経た今も全ての面で日本随一と噂さされる。ここが北条相模守下屋敷跡、坂名はこれに因んだ。
大正8年の暮れ、ここに成瀬(正行)邸が落成する。成瀬氏は明治の中期に慶大を卒業。その翌年、農商務省海外実業研修生の一員に選ばれ英国に渡航。数年に亘り重工業各社の実務を学び、帰朝後は川崎造船所へ入社。"才気煥発"やがて独立して「盛興商会」を興し、一台で巨万の富を築いた。注目すべきはその邸宅、ジョサイア・コンドルの設計に依る。成瀬氏は当初神戸に居住していたが、友人である英国新聞日本支社長死去の際、請われて故人が有した広尾(麻布区)の土地を入手。土地は既に永年に亘り丹精こめた広大な庭園があり、これを生かした邸の設計をコンドルに依頼した。
周知のコンドルは明治政府の招聘で来日。鹿鳴館を初め、数多の洋館建築の名作を次代に残した。わけても最晩年の作品となった成瀬邸は「気品高雅で華麗円熟、彼の作品群の集大成」などと当時の建築身術誌に称賛された。そのコンドルは翌年東京で没し、成瀬氏もまた、この地に永く住む事なく、居を世田谷桜新町に移した。
この邸は昭和15年、政治家で、「箱根土地」の経営者でもある堤康次郎氏が取得。そのころ麻布沿革図に「外務次官々舎」と載るが、実は堤氏が購入し、総理大臣別邸として貸与していた。子の経緯は辻井喬の小説「父の肖像」に詳述され、通称「大東亜迎賓館」ともいわれて、大東亜戦争まえの一時期、利目的(?)独立運動派の面々、南京政府の陳公博、英領インドのチャンドラ、ボース、蘭領インドシナのスカルノ。そして当時の閣僚、東条英機、重光葵、藤原銀次郎などが邸門を潜った。
翌年12月8日未明、米英蘭に対して宣戦。直後に決行された日本海軍に依るハワイ真珠湾奇襲攻撃。緒戦こそ華々しい戦果を得たが、翌年6月初めのミッドウエー海戦敗退以後は負け戦に転じ、南方諸島で玉砕退却を重ねる。そして19年初冬から本格化する本土空爆は、初め爆弾に依る高空域からの各都市軍事施設中心の破壊であったが、年が明けると低空域からの首都焼夷弾無差別投下に転じ、3月10日夜半の下町地区、5月25日夜半の山の手地区、この二つの大空襲で東京都心区部はほぼ壊滅。この5月の空襲で堤邸は全焼。邸門、門衛所、石堀だけが焼け残った。
やがて敗戦。政治家ながら戦時の翼賛体制を批判。商人ながら政商ではなく、ましてGHQの財閥解体のリストに上るほどの大資本家でもない堤氏は、公職追放処分をうける事なく戦後の混乱期を、持ち前の政治的、営業的手(辣)腕で乗り切り、解体された10財閥に代わる新興コンツェルンを築き上げ、同業種の東急グループとの熾烈な戦いに入る。
北条坂の堤邸は戦後再建されたが、豪邸が建つ事もなく昭和44年、享年75歳で堤氏が死去した後も仮住居のまま据え置かれた。
それが60年代初頭のバブル経済のさ中に、セゾン(流通)グループの総帥となった次男の清二氏が、何故かコンドルが建てた旧邸跡地に、三井の綱町三井倶楽部、岩崎に関東閣と比べ、引けをとらないグループの迎賓館「米荘閣」を2年がかりで完成させた。ところが暫くして天皇の崩御。元号が平成に替わると間もなく到来したバブル経済の崩壊。セゾンもまた業績不振に陥り、内紛までが加わり、その収集にもはや不要と化した迎賓館は土地ごと売却され、わずか10余年の短命で消えたが、アジアの用人、日本の首脳たちが潜った邸門など、コンドルの僅かな遺構も同時に消えた。
「ザ・ハウス南麻布」の西端から、坂は再び勾配を強めて鉄砲坂と名を変える。その由来は幕末のころまで、坂の左手に鉄砲組々屋敷があったためだが、この坂名は土着せず、山田坂と呼ばれていた。坂上の丁字路を北へ、笄小学校に向かう西側と鉄砲坂に沿う右手にNTTのモダン住宅が並ぶが、ここが戦前まで山田邸があった。敗戦直後の山田邸なき焼け跡は不法占拠のバラックなどが立ち並び、隣接する某邸などは畑にされた。今この某邸は整備されて竿公園になり、園内の片隅に、この町の沿革絵図板が設置されたが、空襲で焼け出された世代は再び戻らず、それに代わる新たな世代、目の前が幼稚園という事もあり、日中は幼な子たちと共に、若き母親たちの交流の場として賑わう。
幼いころ、狭い敷地の裏窓を開け顔を出すと、鼻を擦るような近さで専用軌道上を市電が走りぬけ、その真向こうの石垣上の樹木の中に山田さんの邸があった。その山田さんがどういう人なのか誰からも訊けなかったが、北条坂の文を書く都合上調べて知った。
山田英夫(伯爵)氏は山口藩主の末裔、明治28年に生まれた。青年期に陸士へ入学、職業軍人としての教育をうけた。日露戦争時は奉天、旅順攻略に参戦。戦争終結後に行われた乃木、ステッセル両将軍の水帥営の会見の場に、乃木将軍専属副官として列席。のちに歩兵第一連隊、第三連隊大隊長を歴任。予備役を経て大正10年、貴族院議員に当選。昭和7年から、堀田坂下にある社会福祉財団福田(ふくでん)会理事長に就任。
山田坂でもある鉄砲坂は、川本三郎氏がいう"凄い坂"ではなく、一投足で下る短い坂。下りきると外苑西通り、日赤病院下交差点に出る。
今でこそ外苑西通りは世間に知られた幹線都道だが、昭和14年ごろまでのこの道路は、伊達跡(白金長者丸)から天現寺橋。天現寺橋から四谷塩町(四谷3丁目)までの玉電、市電の専用軌道脇につけられた狭い道しかなかった。それも日赤病院下で途切れて先がなく、青山、赤坂方面に向かう自動車は迂回をためらい敬遠した。それで東京市は、病院下から霞町へ向かう専用軌道を西へ少しずらし、東(坂)側を開削して道路の延伸を計画した。軌道沿いの住人は何がしかの立ち退き料を貰って他所へ移り、わが一家も今住む町へと引っ越した。
ところが、2年後に戦争が勃発して、道路工事は霞町(西麻布)交差点手前で中断され、先の工事が再開したのは東京オリンピック終了後、専用軌道の撤去後(昭和43年)になる。
病院下の信号を渡り、一方通行路を少しだらだら下ると笄川跡の丁字路に突き当たる。大正10年生まれの亡き長姉の話に依れば、昭和5年ごろまで、ここから下流はどぶ川が露出し、天現寺先の本流(古川)に落ちていた。その姉が幼い頃人伝てに聞いた話として、大正初めごろの笄川は未だ汚れは目立たず穏やかな細流だった。ところが大雨の度ごとに道路に溢水して住人を困惑させた。だが子供たちは水が引くのを待ちかね、バケツを外に持ち出し、道路に残された小魚(稀にウナギ)を競って捕らえた。
ある日中、いつもは人気(ひとけ)が少ない堀田坂下から順心女学校うらの右岸土手にかけて、ものものしい人の動きと巡査まで出て、何があったのかと住人たちは注目した。やがて何台かの自動車が福田会の構内に進入して住人たちは納得した。
福田会は明治の中ほど、全国の仏僧が宗派を超え、生後間もない孤児、棄児たちを救済保護し、少年期に達するまで教育を施し、将来自立の途を開かせる目的で設立された。
会計は渋沢栄一、大倉喜八郎が担当し、後援者に政界の大隈、三条、岩倉具視など、皇族、華族、慈善家などの下賜、献金、寄付金を元に運営されていた。しかし敗戦に依る華族制度廃止、財閥解体、民間富裕層の没落などで運用金が渋り苦境にさらされるが、今はそれに代わる福祉法人がこの事業を受け継いでいる。
笄川が暗渠(あんきょ)化されてから生まれた私の最初の記憶は、家族そろって用事を済ませ、笄町へ帰る麻布乳児院うらの暗い夜道で、日赤産院がある丘上の森の何処かで、啼くフクロウの不気味な声を何度か聴いた。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
年が経て戦争が始まり、福田会脇の暗渠みちは覆土のままで舗装はされず、永い放置で雑草が茂り、踏み跡だけの道と化した。これが幸いして周辺住民に耕されて畑になった。不法と知りつつわが母も、これに倣ってタネを蒔き、戦中戦後のある期間、当時の野菜不足を補った。
戦前までの笄町は、谷沿いをたんぼ笄、此れを跨ぐ東西の丘陵をやま笄と呼び、この町に依拠した人々は往時を懐かしんだ。その何れもが笄小学校を卒えた人たち、その母校が平成19年の春、創立100周年を迎えた。
公立ながら旧麻布区屈指の名門校。皇紀2600年(1940年)の国を挙げての祝賀年に、東京市全区の公立小学校から3校が訓育優良校に選ばれ、その1校として東京市長の表彰をうけた。そんな学校だから越境入学者も多く、それとは関係ない4人の姉兄たちも、この学校を誇りとして学んだ。私は引っ越し先の渋谷区臨川小学校へ入学したが、いつも笄小を羨ましく思った。それは戦時で小児用菓子類の配給が途絶えてからもこの学校では、四大節(四方拝、紀元節、天長節、明治節)と学校創立記念日の式典の後、全生徒に配られる霞坂上の和菓子の老舗、「和泉家」の箱に謹製と印字された"餡入り"紅白まんじゅうを嬉しそうに持ち帰ってくる次兄を、本当に羨ましく思った。そんな事をこの年になっても未だ憶えている。
空襲で笄町が焼け野原になるその日まで、堀田坂下に交番があった。交番から北へ30mほど離れた神道大教院の間は三角っ原と呼ばれ、奥行きのある草むらだった。この原っぱの草をかき分け奥まで探ると、どん詰まりに場違いの生け垣が現れ、その隙間から内側を覗くと、芝が敷かれた広大な庭と、2棟の洋館(同潤会風)アパート(?)がみえた。戦後の経済復興期に原っぱは均らされ住宅地になったが、いつかあの洋館の正体を見極めようと古地図を探し出したが記載はなく、あれが幻であったのかは定かでない。だがこの原っぱは小説に載る。著者と題名はとうに忘れたが、作中に登場する人物は憶えている。麻布中学時代の広津和郎、そして伊達順之助である。この両名が何の諍いか下校の途次、この原っぱの草むらの中で、同級生の立会いのもとで決闘する。この勝敗の末は憶えていないが、この伊達順之助について少し触れる。
伊達順之助は、伊達政宗の子孫に当たる岩手水沢藩主の三男として生まれた。父親の影智から銃に惹かれ、9歳のころから射撃訓練に励むが、これが大変な乱暴者。麻布中学を初めとして当時の名門中学といわれた5校から悉く放校される。時に立教中では不良を拳銃で射殺し、華族礼遇停止処分をうける。以後は檀一雄の小説『夕日と拳銃』に書かれたように満州大陸に渡り、馬賊の頭目として配下を従え、縦横無尽に曠野を駆けめぐるが、戦後は中国(国民党)軍に捕えられ、上海刑場で銃殺されて波乱万丈の生涯を閉じた。
北条坂下から堀田坂上への道筋は、笄川跡を挟んで、北西から南西へとスイッチバックしながら上る。狭い舗道は山側につけられ、同じく狭い車道の片側は崖縁にかかり、その崖縁が港、渋谷両区の境界となる。崖下に関東財務局宮代住宅が並び、それを取り囲む10数本のニレ科の老樹が、伐られもせずに枝葉をのばす。もしこの坂に拡幅があれば、この一方に手がつけられるはず、国有地であるから。この崖下を含む旧宮代町(広尾4丁目)全域は幕末までは堀田家下屋敷用地。廃藩置県後は御料地に編入された。戦後は大蔵省管理の下で分割売却され、丘上の日赤中央病院が全用地の6割に当る既存用地(施設)をそのまま受け継ぎ、永田雅一大映社長が丘の南面3割に当る久邇宮邸(聖心女子大)を取得。残る1割は国有地として現存。海外青年協力隊事務局、オマーン王国大使館(建設中)、福田会(宮代学園)、国家公務員住宅などが使用している。
坂を上り高さが増すと、つい10年前まで、坂の向こうは遮るものがなく、対岸の丘上に広がる有栖川の森、谷に向かう邸宅と屋敷林が雛壇のように並んでいたが、その後に、建ち上がった外苑西通り沿いの高層ビル群が、全ての空隙を埋め、その眺望は視界から消えた。坂は直線で短く、広尾ガーデンヒルズに突き当たる手前で終わる。だがもう少し歩を進めて、この坂上の町並みの今昔を思い浮かべながら、その道筋を辿る。
坂上の右角(西麻布4の7)にマンション(堀田坂ハウス)が建つ前、確か平成2年の春ごろまで、この角地に内田祥三邸があった。昭和初期と思われるコンクリート造り3階建て、堅固そうだが優美さも備えて、地元笄小の校外写生の対象物として好まれ、描く児童も多かったと聞く。戸主の内田氏はRC構造学の権威で東大教授。安田講堂を含め、東大構内の主要建造物を数多設計した。のちに東大総長に就任したが、戦後は南原繁氏にバトンを渡した。戦争末期、この丘上の中心に赤十字病院があるにも拘わらず焼夷弾をばら撒かれて、周辺一帯(病院も一部被弾)の邸宅は罹災したが、不燃の内田邸は焼け残った。それが戦後にGHQの目に留まり、ソ連大使館々員宿舎に接収された。
堀田坂上を右に曲がると、坂は緩く尚も続くが、道幅は広がり、ケヤキ並木の内側歩道に変わる。僅か歩くと左手のガーデンヒルズ内をのぼりきった新坂と出会う。ケヤキ並木に沿いながらヒルズのメーンロード(事業者提供公道)に寄り道すると、明治通りと旧高木町を結ぶ道路の故か、それなりに自動車の往来は多い。だが一度ブランチロードに足を踏み入れると騒音は消え、5区分されたヒルサイトの、それぞれが個性を持つ高層住宅、統一された渋い黄土色の外装、棟々を取り囲む多彩な植栽、波よりも豊かな緑と静かな環境に、同じ広尾の低地に住む私は、この格差に驚く。
この丘陵の再開発が始まる1年前(昭和48年)、ある大新聞の社会面に、"都心に残る最後の超一等地"などと大きく載せたから、その後に問い合わせが殺到、売主である三井不動産、三菱地所などたいした広告費もかけず、クチコミだけで完売したなど、風評も囁かれた。
この町周辺に永く依拠した人々は別にして、かって30余年前まで、この丘陵の北東部に東洋一を誇る日赤産院が実在したことなど、今は知る人も少ない。私が知る産院(小児科、乳児院を含む)の戦中から戦後は、既に筑後40余年を経て老朽化が進み、木造である病棟、渡り廊下の到るところ継ぎ接ぎ補修が目立ち、外壁をつたうボイラー室から病棟を繋ぐ暖房用配管など、処々の継ぎ目から熱蒸気が噴出して、もし煙突の赤十字マークを見落とせば、只の老朽工場と見紛う外観であった。隣接する中央病院も同様、瓦の建て替え時期が迫っていた。
だが病院は、その建て替え財源が不足し、苦慮した。創立期から日本赤十字社の使命は、"博愛と人道"、苦難にあえぐ人々への救済であり、その費用の殆どが善意の献金、寄付金に頼り支えられ、このような運営方針では財源が限られ、各日赤支社病院が独立採算制を迫る中、中央病院とはいえ同じで、国からの援助はない。だが全日赤の基幹病院としての信頼性、いわゆる先進医療の研究開発と治療成果。これに要する人材と最新(進)医療設備(機器)の確保は不可欠。これらを含め、新病棟建設費用の捻出の手立ては、先ず産院を中央病院に吸収統合。36,000坪の用地に散在する隔離(結核、伝染病)棟、職員用低層住宅の一極集中高層化。今は不要と化した担架移送訓練場の有効利用。これは明治以来の伝統をもち、前線で倒れた傷病兵を後方へ担架移送する従軍看護婦の担架移送訓練実習場、通称「担架っ原」の広大な空き地。これらを整理売却して建設資金に充当する。このような経緯を経て昭和50年秋、日赤医療センターが完成。その2年後、売却された16,000坪の土地に広尾ガーデンヒルズが誕生する。
堀田坂上から日赤通り商店街まで、約300mの道筋を片側(西麻布)に向け、その変遷を顧みると、子の並びは幕末まで牛久藩山口家下屋敷が占めていた。同じ道を挟んで下屋敷を構える佐倉藩11万石に比べ、1万7千石の小藩である山口家の屋敷は奥行きが浅く、背後に谷を控え、その谷筋に幾多の武家の小住居が犇めきあった。維新後、この周辺全ての武家屋敷は取り払われ、原野に戻った。(佐倉藩跡地は御料地、開拓使3号地)。大正期に入りまもなく、山口家跡地の大半を黒田清綱氏が取得。その中心地、現在の広陵中学あたりに居を構えた。黒田氏は麹町平河町に本邸を有し、ここを笄町別邸とした。
黒田清綱は薩摩藩主島津斉彬に仕えていたが幕末の動乱期に頭角を現し、官軍東征鎮撫(山陰道)参謀として戊辰戦争で勲功をたて、維新後は明治新政府に登用され、警察、文部など要職を歴任、勅撰の貴族院議員にまで登りつめた。だが清綱に実子がなく、6歳の清輝を養子にとる。のちの黒田清輝である。日本で最初の裸体画(西洋婦人)を描き、当時の各界から顰蹙と非難を浴びたが、動じることなく自らの信念を貫き、のちにその芸術性を評価された。清輝の晩年は笄町別邸で過ごし、ここで関東大震災に遭遇するが被害はなく、その翌年の夏、病災で没した。墓所は同町内の長谷寺に、養父母と共に埋葬されている。
昭和27年9月、その黒田邸跡地あたりに1棟の木造校舎が落成する。区立広陵中学である。中国に端を発し、太平洋へと戦火は拡大。15年の戦いの末に日本は負けた。戦後GHQの占領政策の一つに新学制(六三制、義務教育の延長)の施行があり、昭和22年4月に発足した。広陵中学は4年遅れで南山小学校の教室を借り開校したが、戦災で校舎の大半を失った都市部での新制中学の開校は、学校設立当事者の誰もが、教室探し、校地探しに苦慮し、東奔西走した。一方、間借り教室での学校生活は、教師、生徒ともに制約を受け、少なからず肩身の狭い思いをした。広陵中学の場合、学区内に(笄小、本村小)、元大名屋敷跡(現六本木ヒルズ)、壊滅した軍需工場跡地が多少残されてはいたが、何れの交渉も不首尾に終わり、足で探す校長の焦りが募る中、11番目にしてこの地に巡り合った。当時この2,600坪の土地所有者は杉山金太郎(豊年製油)氏であるが、元の所有者古河虎之助(古河鉱業)氏から譲渡されたまま手付かずの状態にあった。案内され、邸内に足を踏み入れた校長の目に、戦災で礎石だけを残し、烏有に帰した銅(あかがね)御殿。贅を尽くした名庭園の名残の数多の灯篭、庭と池に置かれた三波石など各石が、猛火に灸られ変色し、在りし日の面影を残さぬまま哀れを留めていた。
その後に、杉山氏から譲渡に関する快諾を得て学校建設の目途がたち、校長の奔走は収束した。あれから56年、校舎は増築され、木造から不燃校舎へと変遷を重ねたが何れも老朽化が進み、近々解体される。既に生徒たちはドイツ大使館公邸、南隣の旧郵政宿舎跡の仮校舎に移り、2年後の新校舎落成を待つ。
堀田坂上から西へ向かうケヤキ並木が途切れるあたり、日赤血液センター跡から始まる建設工事用の白い仮囲いが、日赤郵便局脇から南に転じて聖心女子大正門脇まで続く。この仮囲いの中央部から南端にかけて、まだ地上に現れないが、「日本赤十字広尾地区再建整備事業」と、やや長ったらしい名称の5カ年計画事業が昨年春から進行している。
医療センター完成から33年が経ち、老朽化も著しく、将来の高度医療に対応できず、現行の建築基準法が定める免震性をクリアせず、想定される関東巨大地震の際、病院機能停止の恐れありと、かくも短い耐用年数で果てると思えないが、耐震性18階建て新医療センター基礎工事が進行している。
「博愛」を標榜に掲げる日赤医療センターの経営は、もはや多額の累積赤字を抱えて、自力で決済できる見込みはなく、やむを得ず伝家の宝力である用地を割譲、土地信託方式を通して定期借地(50年)とし、民間事業者に提供。これによって得られる権利金を建設資金に充当する。一方、中央部から北端までの借地権を得た事業者(三井不動産、三菱地所)は8棟の中高層マンションを企画分譲する。既に建造物の少ない大駐車場、庭園などを潰して工事にかかり、その大半は今秋にも完工させる勢いで進捗している。現に幾棟か躯体段階で完売を果たし、仮囲いのあちこちに"完売御礼"を掲げ、子の土地の持つステータスの高さを誇示している。
新医療センターの完成を待たず生まれる居住地。この地に居を求める人たちのこれからの50年のスパンは計り知れない。だが広尾ガーデンヒルズの誕生がそうであるように、人々の生活は変わらず、風景だけはやがて馴染む。人と風景は年月を経て変わるが、町の歴史は営々と日々を重ねて、次代に受け継がれる。
―終わり―